MYITTAの工房

日々のくらしや手作り、ときどきミャンマー

January 2011

先日、ミャンマー人のお坊さんから、とても考えさせられるお話を伺う機会がありました。

このお坊さん、現在は日本に住むミャンマー人のために単身赴任で来日されていますが、ミャンマーのお寺では、親のない子や貧しい子供のための養護学校のようなものを営んでいるそうです。そこでは、現在300人以上の子供を受け入れているのだそうですが、この生徒たちのお昼ご飯と教科書や文房具代、そして指導に当たる先生10名ほどの人件費とあわせて、ひと月に10万円くらいかかるのだそう。寄附でまかなわれていますが、運営は厳しいとのことでした。

日本では、一家庭でも子供に月10万円くらいかかってしまいます。同じお金で、ミャンマーの300人以上の子供と先生のための学校の経費が賄えるのです。私たち夫婦も、今度ミャンマーに行ったら、実際にその学校を見て寄付してきたいと考えています。と同時に、他にも社会の役に立ちたいと考えている個人や企業に、そういった現状を知ってもらい、何か行動に移すことができないだろうか、とも考えています。

今日は、駒崎弘樹さんの『「社会を変える」お金の使い方−投票としての寄附 投資としての寄附』を読みながら、一段と行動することへの勇気をいただいたのでした。行動の方法や形には様々な可能性がありますから、しばらく模索することになるでしょうけれど、一歩踏み出してみることが重要なのだと思います。

『アジア・美の様式 下 東南アジア編』、J. ボワスリエ著、石澤良昭訳、1997年(オリジナル版La grammaire des formes et des styles,1978)

東南アジア美術の権威、J. ボワスリエによる本書では、ページ数は限られているものの、ビルマ(ミャンマー)の美術史についての概要が述べられている。石澤先生の和訳により、日本語で読めるという点でも貴重な一冊となっている。5世紀頃以降の遺跡や建築、美術について時代を追って、代表的な作例について紹介されている。考古学上の遺跡分布がわかる地図と、線画による図の資料がついていて、視覚的にも理解しやすい。

Gakkou昨年ミャンマーの主人の実家に行ったとき、1歳半の娘をつれて、主人の母校の小学校に遊びにいきました。

木と竹を編んだ壁にとたん屋根をかけた、平屋造りの校舎のその学校は、よく日本で見る、いかにも東南アジアの貧しい学校、という風情です。でも木々に囲まれた自然いっぱいの環境は、子供にとって何よりの楽しい学び場に違いなく、まじめで優しい先生たちの雰囲気と相まって、羨ましいくらいのびのびとしていました。

久しぶりの学校で、懐かしい先生と談笑した主人は、この学校を誇らしげに私に案内してくれました。珍しい外国人訪問者を前に、たくさんの子供たちも控えめな笑みを見せながら出迎えてくれました。

ちょうど竹でできた校舎の脇には、レンガを積んだ新しい校舎を建てる工事が始まっていました。わずかばかりの寄附をするつもりで訪れていた私達は、校長先生と相談して、そのお金は新校舎の窓にガラスを入れるために役立ててもらうことになりました。

あれから1年近くたった最近のこと。
「子供たちに衛生的なトイレをつくってあげたい」
と主人が言い出しました。あの小学校訪問の時、校長先生がトイレの問題を話していたらしいのです。今のトイレは、地面に穴を掘って埋めるだけのボットントイレで、とても不衛生な状況なのだそうです。せめて新校舎建設を機にタンク式の手動水洗トイレにしたいのだが、そのためには日本円で80万円くらいかかるのだとか。

それはコンクリート製の巨大なタンクを地下に埋め、5年後とか、10年後に薬剤を入れて処理し、土にかえす、を繰り返して使うのだそう。汲み取り式ともちがうこのトイレ、実物を見ていない私にはちょっと理解しにくいのですが、主人の実家があるメティッラーでは多くの家庭が採用しているタイプのものなのだそう。主人の実家ではその工事に3、40万円くらいかかった(10年用)というから、学校でその値段というのは容量は大丈夫なのだろうか・・・・?

具体的な形はともかくとして、母校の後輩にせめて清潔なトイレを、と願う気持ちはとてもよくわかる。一般的に海外から途上国を支援したいと思っても、必要なことが膨大すぎて、何から手をつけたら良いのか、個人レベルでできることは何か、いつも悩んでしまう。できれば目に見える形で身近なところから支援したいと願う私達は、この小学校のトイレの改善を実現させようではないか、ということになった。

ニューヨークに住む姉も、そしてミャンマーに住む他の兄弟も、やりくりして少しずつ出資したいと言っている。いや、メティッラーで米屋を継いだ姉は、足りない分全部自分が払いたいという勢いだ。それなら、実現は不可能ではないだろう。

ミャンマーではこのように、学校や寺院の改修工事が寄付で賄われることが少なくないのだという。地元政府が何とかするべきインフラの問題のように見えるけれど、電気は二日おき、ガスはなし、水道は井戸水、という町では、公共事業に期待していたら、何十年先になるかわかりません。

でも、ふと思うのです。こうやって、少数の個人が自腹で出資して一つ解決したとしても、それでいいのだろうか。解決されるべき更なる課題はたくさんあるわけで・・・。

一方で、先進国には、誰かの役にたちたい、とか社会貢献したいが具体的な成果が見えないもどかしさを訴える個人や企業もたくさんいる。そういうギャップを埋める橋渡しの活動ができたら、それは兄弟でお金を出し合って、ひとつの小学校のトイレを改善するだけではない、もっと大きなものが生まれるのではないか。

学校の問題、トイレの問題や、水の問題は、世界の途上国あちこちで叫ばれている古典的ともいえる問題で、多くのNGOやボランティアがすでに取り組んでいるはず。私達も少し勉強して、母校のトイレという具体的な対象を手掛かりに、個人の枠を超えた支援の形を模索してみたいと考えている。



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